宍粟市企画部・まちづくり防災課の椴谷米男課長の、ご好意で同市一宮市民局発行、地域資源情報誌編集委員会の編集による播磨いちのみや・ふるさと発見『いちおし』vol⑦と⑧の小冊子二冊をいただいた。
さっそく読んでみた。するとvol⑧の中に「いちのみや神社・仏閣を訪ねて」という見出しで一宮町繁盛地区に所在する神社・仏閣が紹介されていた。その末尾の「観音山仏心寺」の項に同町黒原地区に、今から500年ほど前の室町時代につくられた木彫の『子安地蔵』のことが掲載されていた。「古くて木づくりという珍しい地蔵さんだなあ…」と思い取材することにした。
猛暑続きだった8月中旬を過ぎ、ちよっびり涼しくなった日の朝、同市山崎町中心部を車に乗って出発。
国道29号線を北進、同市一宮町安積から宍粟と但馬を繋ぐ県道6号線にはいり、さらに北進して同町三方町にある宍粟市歴史資料館を訪ねた。
同資料館では同市教育委員会・社会教育課文化財係の田路正幸さんにお目にかかり「子安地蔵さん」についてのいろいろの話を聞き、地蔵さんのことについて記載されたプリントをいただいた。その内容は『黒原の子安地蔵』と題するもので「このお堂の本尊としてまつられている木造地蔵菩薩は、右足を左膝のうえにのせた等身大の半伽像で、右手に錫杖(しゃくじょう)を左手には宝珠(ほうじゅ)を持ち、うしろには光背(こうはい)を背負っています。両脇には、守り神として等身大の不動明王(むかって右側)と毘沙門天(むかって左側)を従えています。
ある言い伝えによると、今から500年ほど前の室町時代に
左近太夫(さこんだゆう)というものがこの地をおとずれ、一本の大木から三体の地蔵を刻みつけたといいます。一番目は黒原の地蔵で、二番目は山城国山崎(現在の京都府大山崎町)三番目は安芸国広島(現在の広島県)にあるということです。(『兵庫の地名』・平凡社・1999年刊による。)
地蔵菩薩は、もともと六道の衆生の救済を釈迦からゆだねられた仏とされています。とくに子どもを守り救う仏として童形で現れると考えられ、広く庶民の間で親しまれてきました。黒原の子安地蔵も、子授かり、安産のお地蔵さんとして有名で、今も近隣の人々に篤く信仰されています。」というものだった。(原文のまま転載)
このあと、田路さんに案内していただいて、「子安地蔵さん」が、おまつりしてある現地に向った。歴史資料館から車で出発。同町と但馬の朝来を結ぶ国道429号線を北東方向に10㌔ほど行き同町黒原地区へ。笠杉トンネルに、ほど近くの同地区内の国道から左折して地域道にはいり急坂を登ると直ぐ近くの古風で立派なお堂の前に着いた。お堂は地元の人たちによりよく手人れをされており、この中に田路さんからいただいた「黒原の子安地蔵」に記載されている通り、中央に「子安地蔵さん」両側に不動明王と毘沙門天が、おまつりしてあった。
「子安地蔵さん」は、素晴らしい木彫で、お顔はやすらかな表情。両側の守り神二体は、きりきりとひきしまった顔をされていた。「子安地蔵さん」は、見れば見るほど神神(こうごう)しさがつのる思いだった。
田路さんは 「このお堂は″宝形造り″です」。「ここは黒原奥組といわれるところで、昔から播磨と但馬をつなぐ交通の要でした」。「子安地蔵さんを刻みつけられた左近太夫は仏像を専門につくる″仏師″だったようです」など話してくださった。
角川日本地名大辞典によると黒原の地名は「秀吉の但馬征伐軍が当地を通過する途中に日没したことに由来する。」と記載されている。秀吉の但馬征伐は永緑12年(1569年)だった。
同地区の名称は江戸時代から明治22年までは「黒原村」、その後は「宍粟郡繁盛村黒原」「同郡一宮町黒原」今は「宍粟市一宮町黒原」になっている。戸数と人口は寛文年間、36戸、213人。明治14年、55戸、227人、現在は48戸、181人
(平成20年7月末現在)。
最後になったが『いちおし』に「子安地蔵」について「毎年9月24日には仏心寺住職により大般若祈祷が厳修されています」と記載されていた。
(平成20年9月:宍粟市山崎文化協会事務局)