こんどの「サンホールやまさきニュース」の「郷土の伝説と民話」のシリーズには、宍粟市千種町内で語り継がれている伝説を掲載したいと思って準備をすすめていたところ「同町の奥地に“鉈取淵”という言い伝えがありますよ…」との話を間き、取材することにした。
さっそく、同町内での伝説取材のとき、いつも大変お世話になっている同町・元教育長の上山明さんに電話。伝説の現場への案内をお願いした。上山さんから「よろしい。案内しましよう…」との、うれしい返事があった。
激しい降雪のあった翌日。とても寒い日だったが、同市山崎町の中心部を車に乗って出発。道路の凍結を心配しながら千種町へ。同町内では同市千種市民局で上山さんにお出会いし、短時間だったが話し合いをしたあと、伝説の現場へ案内していただいた。
同市民局から同町と鳥取県をつなぐ県道を7キロほど北進した同町河呂地区の谷川に“鉈取淵”があった。道路ぱたに車を止め、積雪50センチほどの広場の中を滑ったり、転んだりしながら、およそ50メートル歩き、やっと伝説の現場に着いた。
“鉈取淵” は、同町を縦貫して流れる千種川の源流近くの川幅およそ7メートルの谷川にあり、延長17メートルほどの流水のよどみが“鉈取淵” だった。淵の水深は推定2メートルくらい。付近一帯は野も山も厚い雪におおわれて美しい雪景色を描きだしていた。
上山さんからお聞きした話と、昭和47年発行の兵庫県教育委員会による「西播奥地民俗資料緊急調査報告“千種”」に掲載されている“鉈取淵”の項を参考に想像をたくましくして “鉈取淵” の伝説をつづってみた。
むかし、昔のこと“千草の里”(現在の宍粟市千種町)に優しい娘さんと実父、継母(ままはは)の3人暮らしの一家があった。娘さんは18歳。当時、結婚適齢期といわれた「年ごろ」だったが、結婚のことよりも親を助けて働くことに懸命だった。炊事、洗濯、掃除はもちろんのこと、田畑での農作物づくり、山仕事などにも精を出しており、近所では「よく働く、いい娘さんだ…」と評判になっていた。
ある日のこと、自宅から少し離れた山へ出かけ、鉈=薪などを割るのに用いる、短く厚く幅の広い刃物(広辞苑より)で若木を切って薪づくりに汗を流していたが、ちょっぴり疲れたので、山すそ近くを流れる谷川の土手でひと休み。このとき身近なところに置いていた“なた”がなぜだかスルスル土手をすべり、川の淵に落ち込んでしまった。
そのころの淵は水深が3メートル以上もあり、娘さんが “なた” を拾おうと懸命に努力したが “なた” を見つけることが出来なかった。辛い思いをしながら帰宅。継母に「なたを谷川の淵に落としてしまい、あちこち探しましたが見つかりませんでした」と話をした。ところが、継母は「娘が山仕事をするのがいやだと思って “なた” を淵に捨てたんだろう…」と誤解し「なに言ってるの “なた” を捨てるほど仕事をするのがいやなんだろう。ばかやろう…」と怒鳴りつけた。
娘さんは、継母の言葉にびっくり。再度 “なた” がなくなった淵へ行き、長時間にわたって “なた” を探していたが、ひどい疲れがでてしまったためか、あやまって淵の深みに落ち水死してしまった。父親は娘さんの死が悔しくて涙を流し続け、近所の人たちの同情をあつめた。
その後、なんだか訳がわからないが、誰彼言うことなく、この淵の近くを “なた” を持って通ると “なた” が淵の中に吸い込まれて行方不明になり、淵底から「 “なた” をかえして、かえして。その “なた” ではない…」との声が聞こえたとか…。
前記の県の教育委員会の“千種” “鉈取淵”の項には、娘さんが水死したあとのことについて『その後、この淵の周辺で鉈を手放すと、鉈は生物のように淵にすべり込み、やがて「鉈をかえせ、鉈をかえしてくれ」と訴え、次に「違う、違う、これではない」と泣き叫ぶ声が聞こえると伝えられ、今もここでは鉈を手放すことを禁じている』(原文のまま)と記載されている。
(平成20年3月:宍粟市山崎町文化協会事務局)