(58)宍粟市山崎町『力石(ちからいし)』

「ひちりき神社」の本堂近くに並べられた「力石」

 本棚の整理をしていたところ、宍粟市教育委員会・社会教育課・生涯学習係・生涯学習センター学遊館の亀井義彦係長から、ずっと前にいただいていた『山崎町の力石』と題するプリントが出てきた。「いいものを見つけた」と思い、さっそく懐かしく再読した。
 全国各地の「力石」・「力くらべ」の調査研究をされている姫路市出身の四日市大学健康科学研究室の高島慎助教授が平成6年に書かれた当時の宍粟郡山崎町内の「力石」についての具体的な調査結果が記録されたものだった。
 調査記録の巻頭には研究の動機として『江戸時代から昭和の初期まで、全国のほとんどの集落で行われていたのが「力石」を用いての「力くらべ」(力持ち)である。昔の人々は、すべての労働を人力に頼るしかなく必然的に個々人の体力が必要とされ、
各種の力くらべや身体を鍛えることが行われ、同時に数少ないレクリエーションとしての役割も果たしていた。 もともと「力石」は農村では米俵を、漁村や港湾地域においては醤油、油および酒樽などの運搬に従事する労働者の間から発生したものである。しかし力仕事が人力から機械に移るとともに種々の娯楽が増え「力石」の必要性が失われていった。今では「力石」の意味はもちろん、その存在すら忘れ去られようとしている。その反面、確認された「力石」については自治会、老人会および教育委員会などにより郷土の文化遺産として次々と保存されつつもある。このように庶民および郷土の文化遺産として見直されている「力石」を今のうちに調査確認しておかなければ全く陽の目を見ることなく歴史の闇の中に葬り去られてしまうであろう』=原文のまま=と記載されている。
 山崎町での「力石」の調査は前記、亀井係長はじめ自治会長・老人クラブ役員、文化財審議委員らも協力して実施され、農山村地域の神社境内などで51個の「力石」があることが確認されている。「力石」の形は、ほとんどが楕円形で表面がデコボコの少ない野面石(のづらいし)。重さは米俵1俵16貫(60㎏)を基準に20貫(75㎏)から30貫(112.5㎏)のものが多かった。
 昔の人たちは暇をみつけては神社境内などに集まり「力石」を持ちあげるなどして身体を鍛え、年に数回は地元の人たちの大声援を受けての「力くらべ」を大いに楽しんだという。全国各地からの言い伝えでは「力くらべ」で優勝した男には「酒一升がもらえた」「当時では珍しい白米を腹いっぱい食べさせてもらえた」「美人の嫁さんがもらえた」「遊郭に行くのが許された」などと、記録されている。
 もう直ぐ“秋”というのに、むせかえるような暑い日。同町内の「力石」が保存されている現場を見て回った。一箇所で一番多い10個もの「力石」が見つかつたのは同町須賀沢・出石(いだいし)の「ひちりき神社」の境内。現在、ここの「力石」は神社本堂の隣接地にずらり並べて展示され「力石」と刻み込んだ小さな石柱がたっている。地元の古老は『このお宮の直ぐ近くを流れる揖保川一帯には昔、高瀬船の船着き場などがあり、ここで働いていた人たちが身体を鍛えるため神社境内に集まって「力石」を用いての「力くらべ」などして楽しんでいたと聞いております』と話してくださった。同町中広瀬の夢公園には、西北から入口近くに同町庄能の大水戸神社境内にあった4個の「力石」を持ち込んで展示。石にはそれぞれの重量が刻み込まれており一番重いものは125㎏。軽いのは72.1㎏。同町金谷の墓地にある「力石」は光岡安治郎顕彰碑として保存され重量や年代など刻み込んだ“切付(きりつけ)”があった。
  (2006年9月掲載:宍粟市山崎文化協会事務局)

夢公園に展示されている4個の「力石」
光岡安治郎顕彰碑になっている金谷墓地の「力石」