倉床『“白滝さん”と“お血”』

白滝さん

 昭和63年3月、当時の宍粟郡一宮町から発行された『一宮町史』の第九節「文化の発展」の3項目の「郷土の名勝・民話伝説」を再読していたところ、その中に“白滝さん”(倉床)と題する、お不動さまと“お血”にまつわる伝説が掲載されていた。前に読んだとき見落していたらしい。「これはいかん…」と、さっそく現地取材することにした。梅雨入りをしていたが時折り晴間もある日、現地取材に出かけた。
 宍粟市山崎町を車で出発。国・県道を北進して同市三方町にある宍粟市歴史資料館へ。同館内で同市一宮町内の伝説取材のとき、いつもお世話になっている田路正幸学芸員にお会いして
“白滝さん”の言い伝えのことについて話を聴いたあと、伝説の地に案内していただいた。
 同資料館から、さらに県道を北へ。約8㌔行った同町倉床地区の揖保川最上流にかかる浜廻橋近くの空地に車を止め、川沿いの狭い山道を、しばらく歩くと″白滝さん″が見えた。落差5㍍くらいの小さな滝だった。滝壷のすぐ横に木づくりの「白滝不動堂」があり、不動明王さまと神変大菩薩さまが、おまつりしてあった。
 不動堂の板壁には「この瀧は昔、むかし、その昔から、この村の人はもちろん、近郷の人々からも白滝さんと崇められて今日に至る…」=原文のまま=など、由来を書いた掲示板が張り付けられていた。
 田路学芸員は「雨降りのとき、滝の水がお米の磨ぎ汁のように白く見えるので、人々が何時しか“白滝さん”と呼ぶようになったと伝えられています」と滝の名付けについて話して下さった。
 『一宮町史』と田路学芸員から聴いた話を参考に想像をたくましくして“白滝さん”と“お血”にまつわる伝説をつづってみた。

 むかし、昔のこと。播磨の国の北西部、倉床の里(現在、宍粟市一宮町倉床)に、若いころから長期にわたって地域の人たちみんなの幸せを願って色々と尽力している親切な長者がいた。この長者が“還暦”の数え歳61歳になった。そのころの平均寿命は40歳くらいだったと推定され、元気いっぱいで“還暦”を迎える人は少なかったようだ。そこで村里の人たちが、より寄り相談。日頃お世話になっているお礼も兼ねて地域あげての「長寿をお祝いする会」を催すことになった。
 お祝の会では各家庭の主人らは会場の設営など。主婦たちは出席した人たちをもてなす料理の手づくりを担当することになった。主婦たちは開会の二日前から料理づくりの準備をはじめたが、出席する人たちが予想を超えたため、ご馳走を盛る“お血”が足りないことが判った。「どうしよう…」と、みんなで知恵を出し合ったが「これがいい」という対応策が決らず困ってしまった。
 その時、一人の主婦から「なんでもお願いごとをきいて下さる
“白滝のお不動さま”に祈願してはどうでしょう…」という発言があった。「そうやー、それはいい考えだ」というので、さっそく、みんな揃って“白滝のお不動さま”におまいりし「困っているんです。なんとか、あすの朝までに“お血”を貸して下さい」と、両手を合わせ、何度も頭をさげて祈願した。
 翌日、夜の明けるのを待って主婦たちが“白滝のお不動さま”を訪ねると、お堂の前に、お願いした数の“お血”が、きっちり並べられていた。主婦たちは大喜び。お祝の会に、この“お血”に手づくりのご馳走を盛り付けて出席した人たちに振る舞った。「料理もおいしかったが“お血”が立派だったのもうれしかった」と好評。宴席も大いに賑わった。
 宴会が終ったあと主婦たちは“お血”をきれいに洗って″白滝のお不動さま″のお堂の前にお返ししたが、その夜のうちに“お血”は、すっかり消えていた。
 このことがあってから、村里で長寿祝い、婚礼、お祭りなど祝いごとをする時には″白滝のお不動せま″に、お願いして“お血”をお借りするなど大変な恩恵を受け続けた。
 ところが、あるとき“お血”を借りた村里以外の人が誤って一枚の“お血”をこわしてしまった。あやまってお返しすればよかったのに「たくさんの“お血”の中の一枚くらい、こわれていてもわからへんやろ…」と足りないまま“お血”をお堂の前に返した。翌朝には、いつもの通り“お血”は消えていたが、それ以来、村里の人たちが、いくらお願いしても“お血”を貸してもらえなくなったという。
      (2005年7月掲載:山崎文化協会事務局)

“白滝さん” のお話は後半