キツネにまつわる伝説は各地にあるが、山崎町西鹿沢でも「いたずらキツネ」の話が語り継がれていた。
同町教育委員会の大谷司郎社会教育課長からお借りした山崎郷土研究会発行の″山崎郷土会報″の綴りを読んでいたところ、昭和51年発行の会報No.48号に同研究会の会長だった故・堀口春夫さんが書かれた「民話小噺(こばなし)」と題する項目の中に
「いたずらキツネ」のことが掲載されていたので、この話を知った。
江戸時代の話だったので当時の山崎藩のことについて大変詳しい同町鹿沢の横井時成さんを訪ね、お話を聞いたり資料をいただいたりした。このあと堀口さんが書かれた山崎郷土会報に掲載された記事を再録するような形になったが、これに、ちょっぴり想像もまじえて「いたずらキツネ」の話をつづってみた。
いまから300余年前の江戸時代初、中期のころ、同町西鹿沢の南と北を結ぶ道路の一つ、通町(とおりちょう)付近で、地元の人たちをびっくりさせるような出来ごとが相次いでいた。いずれも夜中のこと。
「山崎藩の武士が御殿からご馳走の残りを重詰にして帰宅する途中、知らぬ間に馬糞(ばふん)入りの重詰に、すり替えられていた」とか。
「暗い道なのでローソクに火をつけた提灯の明かりをたよりに通行中、なにものかに火を消され、溝に落ちて大ケガをした」とか。
「大木のような巨大な、お化けがあらわれ腰をぬかした」など、など。町の人たちは、いずれも「いたずらキツネ」の仕業だと話し合っていた。
そのころ、同町西鹿沢と段両地区の境界の直ぐ北側に山崎藩の治安を守るための「鶴木門」という大きく立派な門があった。
「惣門(そうもん)」ともいわれ、冬は暮れ六つ(午後6時)になると大扉を閉じ、よほどの急病人でもない限り通行が許されなかった。門の横には番所があって番士が交代で張り番をしていた。
ある日。弥左衛門という番士が宿直をしていたところ、夜おそく門をたたく音がし「弥左衛門、弥左衛門さん、門を開けて下さい、急病人が出たのでお願いします」との声。弥左衛門さんは寝たばかりのときだったので、目をこすり、こすり番所を出て小門を開けてみた。しかし、誰もいない。「はてな…空耳だったのかな…」と思いながら番所にもどって仮眠の床にはいった。
しばらく、うと・うと、していると、また「門を開けて下さい。急病人です」との声。弥左衛門さんは、やっと体がぬくもりかけたところだったので、いやいやながら外に出て小門を開けてみたが、やっぱり誰もいない。
「おかしいなあ…」と一人ごとを言いながら、また床の中にもぐり込んだ。すると、今度は一段と大きな声で「早く門を開けて…」と繰り返し叫び始めた。
うるさくて仕様がないので再度、小門を開けてみたが、やっぱり誰もいない。「くそ…」「これは、よっぽど、いたずら好きの小僧の仕業に違いない。こっぴどく、こらしめてやろう」と番所にもどらず、門の小脇の軒下にかくれて待っていたところ、しばらくすると大きなキツネが太い尻尾を振りながら門の前にあらわれた。
「おやー!!」と弥左衛門さんは驚いたが、息をひそめて様子を見ていると、キツネが門の扉の前で逆立ちになり、うしろ足を扉にかけ太い尻尾で ″トン・トン″と戸をたたきながら人声に似せて「弥左衛門さん、門を開けて下さい」と言いはじめた。腹を立てた弥左衛門さん「おのれキツネめ。人をだましやがって…」と六尺棒をにぎって表へ跳び出し「こなくそ…」とキツネの頭を一撃。不意をくらったキツネは六尺棒で脳天を打たれてはたまらない。神通力を失って失神した。弥左衛門さんは、キツネの足を縛りあげ翌日、門の前につり下げて見せものにした。そのあと「これからは絶対人をだますなよ…」と怒鳴りながら放してやったが、それ以降キツネのいたずらは、すっかりなくなったという。
(2005年3月掲載:山崎文化協会事務局)