一宮町公文で「権現さま」にかかわる伝説が語り継がれていると聞き取材した。
さわやかな秋晴れの朝、山崎町を車で出発。国道を北進して一宮町曲里の信号機のある交差点を右折。県道を更に北へ進み、同町三方町にある歴史資料館を訪ねた。
同資料館では、同町文化協会の大井直樹会長、同資料館の田路正幸学芸員、郷土史に詳しい同町公文在住の小椋徳文さんの三氏にお目にかかり、テーブルを囲んで「権現さま」についての、いろいろの話を聞かせていただいたあと、伝説ゆかりの地-同町公文の「川上神社」と、その近くの「おかま滝」に案内してもらった。
同資料館から北へ、およそ3㌔行った公文のケヤキやヒノキの巨木が林立する森の中に「権現さま」をおまつりした「川上神社」があった。厳(おごそ)かな社殿。参道入口には「権現さま」のことなど神社の由緒を刻み込んだ立派な石碑が建っていた。また、神社にほど近い揖保川の源流に落差1㍍余の「おかま滝」という小さな滝があり、隣接の岩盤に「権現さま」が乗られた神馬の蹄(ひづめ)のあとと伝えられるおおきな窪みがあった。
大井、田路、小椋の三氏から聞いた話と一宮町史を参考に想像をまじえて「権現さま」にまつわる伝説をつづってみた。
昔、むかしのこと。同町三方地区で一番高い但馬境にそびえる志倉山(現在の藤無山・標高1139㍍)の頂上に「権現さま」がおられた。「権現さま」は天災・病気など諸悪を迫っばらって下さるというので近在の里人たちの信仰が厚く、おまいりする人たちが後を絶つことがなかった。
いまから890余年前、平安時代、天永年間のころ、公文の村里のお年寄りの中から『「権現さま」が高い山の天辺(てっぺん)に一人ぼっちでおられるのは寂しいだろう…』『しょっちゆう「権現さま」に、おまいりしたいが、年をとると険しい山道を長時間かけて登らんと志倉山の頂上まで行けんのが苦労の種や…』など、との声が高くなった。そこで、里人たちが集会を開いて相談。『「権現さま」を村里へお迎えして懇(ねんご)ろにおまつりし、盛大な祭事をしよう』と決めた。
さっそく村里代表の人たちが「権現さま」におまいりして『公文の村里へおいで下さい』と心を込めてお願いした。しかし「権現さま」からは何の返事もなかった。その後も代表の人たちが同じお願いを続けていたところ、ある日、「権現さま」から『但馬の若杉と波賀の道谷からも同じ願いを聞いている。三地区の里人たちで相談の上、迎えに来てくれ…』との、お告げがあった。
数日後、三地区の里人たちが集まって相談会を開き、激論をたたかわせた結果、『吉日を選び、その日の一番鶏が鳴くのを合図に各地区を出発。志倉山の頂上へ一番早く登り着いた地区へ「権現さま」をお迎えすることにしよう…』とのことを決め、このことを「権現さま」に申しあげた。
公文の村里では足の速い元気いっぱいの若者数人を選んで吉日を待った。いよいよ実行の吉日がやってきた。若者たちは志倉山の麓の森の中に勢ぞろい。一番鶏の鳴き声を聞くと同時に山頂を目指して出発。汗だくだくになりながらも小走りで登山。やっとのことで頂上にたどり着いた。若杉、道谷二地区の人より早く一番乗りだった。息せき切りながら、みんなで声をそろえて『「権現さま」お迎えにまいりました』と祈願した。すると「権現さま」は『よし…』と答えて神馬にお乗りになり、空を飛ぶような、すごい勢いで公文の里へお移り下さったという。その時の神馬の蹄(ひづめ)のあとが揖保川源流に落ちる「おかま滝」に隣接する岩盤にある窪みだと言い伝えられているとのこと。
川上神社では毎年4月25日に春祭り、9月10日に秋祭りが、にざやかに催されているそうだ。
(2004年11月掲載)