ある日、山崎町教育委員会社会教育課で文化活動についての話し合いをしているうち、短時間だったが伝説と民謡のことが話題になった。その時「城下地区千本屋の雨祈神社へお参りすると、
旱天の慈雨をもたらして下さるだけでなく、恐ろしい毒を持つマムシ除けの砂を授かることができる」「雨祈神社の歴史など記載した小冊子が町の図書館にある」との話を聞いた。
さっそく図書館へ行き「雨祈神社社史」と題する本を読み、古い歴史を持つ神社であることを知った。
後日、同町中心部、中鹿沢の県道交差点から約1.4㌔南東の同町千本屋庄堺の同神社へ。古木の林立する神神(こうごう)しい森の中に威厳に満ちた社殿があった。驚いたことに拝殿正面の軒下にへビを形どった長さ6.5㍍ほど、胴まわり約60㌢もある、でっかいシメ縄が飾り付けられていた。このシメ縄飾りは後記する白へビ伝説に因(ちな)んだもので、十二支の巳年に氏子ら数十人が同神社に集まり、モチ米の稲ワラ600束ほどを使い一日がかりで作りあげるとのこと。
また、拝殿横には室町時代、赤松家の家臣・岡城城主・宍粟作十郎範景が同神社へ参詣したときに詠んだ「民草(たみくさ)のたかへす雨の祈りにはここの宮居(みやい)の効験(しるし)たえせぬ」の詩歌を刻み込んだ石碑が建立されていた。
同神社境内でお目にかかった宮総代の高井与一さん、志水義明さん、東本信治さんと地元・千本屋自治会長の千本春男さんの四人から聞いた話と同神社史を参考に想像もまじえて同神社にまつわる話をつづってみた。
江戸時代から“水戸の黄門さま”として多くの人たちに親しまれてきた徳川光圀(とくがわみつくに)編纂(へんさん)の「大目本史」の神祇誌(しんぎし)によると、いまから1320余年も前の天武5年(677年)のこと。当地の豪族の首長のもとに「神様からのお言葉である」という天武天皇からの勅令が届いた。その内容は「我、宮殿を建てて敬い祀りなぱ甘雨を降らせ霖雨を止めん」というものだった。
豪族の首長は、直ちに一族のものだけでなく、地元の人たちにも協力を求め、地域ぐるみの奉仕作業で神社を創建。古来から雨乞いの神様として信仰されている『たかおかみの神』をおまつりし“雨祈神社”と名づけた。同神社史には「高」は闇に対して山峰を指し、「おかみ」は龍神で雨を司る神様と記されている。
同神社の本殿には祭神と共に“へーサラ・バーサラ”と呼ばれる直径10㌢ほどの神石がおまつりされている。この石は慈雨のお恵みをお願いする神事には、かかすことのできない貴重なもの。
旱天続きで、さっばり雨が降らず、里人たちの生活用水が不足、農作物の生育もあやぶまれるような時、村里あげての雨乞い神事が行われていた。神社に里人たちが勢ぞろい。みんなが力を合わせて青竹で棚を作り、この上に湧き水を汲んだ浄水を入れた器を置き、その器に、きっちり蓋をしたあと祭神に「どうか雨を降らせて下さい」と祈願。その浄水を神石に注ぐと慈雨がもたらせられたと伝えられているという。
もう一つの話。むかし、昔のこと。村里一帯に毒を持つへビ“マムシ”が繁殖。噛まれて苦しむ人が相次いだ。そこで一人の老婆が「こんなことが続いては困る。神様にマムシ除けのお願いをしよう」と雨祈神社へ。鳥居をくぐり抜け、トボ・トボ歩きながら境内のアチ・コチを眺めているうち拝殿近くの古木のかたわらに大きな真っ白いへどが、とぐろを巻いているのを見つけた。
一瞬、びっくり仰天したが、真ぐに気を取り戻し「白いへビは、お宮の守り神に違いない」と思い、両手を合わせてお祈りした。しばらくすると白へビは本殿の方へ向かって姿を消した。老婆は、あわてて神前にぬかずき、神様に「マムシ除けをして下さい」と心を込めて祈願した。すると神様から「拝殿近くの砂を持ち帰り、家の周りに撒けばマムシ除けになる」とのお告げがあった。老婆は、さっそく拝殿横の砂を集めて帰宅。家の周りに撒いたところマムシが出てこなくなった。このことを知った近所の人たちも同神社にお参りして砂をいただき、家の付近だけでなくマムシの出そうなところに撒いたので、村里ではマムシに噛まれる人がなくなったと言い伝えられ、それ以来、同神社がマムシ除けの神様としても信仰されるようになったという。いまでもキャンプや登山する人たちが同神社におまいりし、拝殿横に積まれているマムシ除けの砂を持ち帰っているとのこと。
同神社の春祭りは5月5日。秋祭りは10月瑚の“体育の日”に催され、子どもの御輿(みこし)練りなど行われる。
また、12月末の深夜には初詣の人たちに年越しのぜんざいをふるまうとのこと。
(2004年9月掲載:山崎文化協会事務局)