山崎町中心部、伊沢町の泉龍寺境内に「延命地蔵尊」がおまつりしてある。ずうーと以前から、このお地蔵さんを信心すると、いろいろの念願が叶えられ、とくに達者で長生きできると言い伝えられており、いまも近在の人たちのおまいりが続いている。
野も山も美しい新緑に包まれた″春本番″の爽やかな日。同町内在住、同寺院の檀家で山崎町郷土研究会長として長い間、活躍されてきた郷土史の権威、堀口春夫さんを訪ね「延命地蔵尊」にかかわる話を聴いたあと泉龍寺へ案内していただいた。
寺院の山門をくぐると直ぐ右側に木造の立派なお堂があり、その中にハスの花弁を型どった台座の上に北を向いてお立ちになった身丈1.2㍍ほどのお地蔵さんがおまつりしてあった。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうしゅ)をお持ちになり、首には色あでやかな赤い前垂をかけておられた。お顔は丸く柔和。表情は慈愛に満ちあふれていた。
お地蔵さん前にはお願いごとを聞きとどけていただいた人たちが、お礼のため置いたと思われる“開願”の文字や年齢など刻み込んだ石づくりの小さなお地蔵さんが、ずらり並んでいた。
また、お堂の中には「お地蔵様御眞言“おん訶々々微三摩曵莎訶(おんかかびさんまえひそわか)”とお唱えして心静かに家内円満、長寿福得、安楽往生をお願いして下さい。一切を仏様におまかせして大安心すれば、すべての悩みは解消されます」と書いた掲示板が取り付けられ、外側には“南無延命地蔵”の文字を染めぬいた職(のぼり)がはためいていた。
堀口さんからいただいた江戸時代、享保17年(1732年)記録された「泉龍寺地蔵堂の由来」のプリントには『当境内にある地蔵尊は初め延命地蔵と称し、尼ヶ鼻崖下(寺町)に有りて北向き地蔵とて特に霊験あらたかなり。其の由来書に日く「夫れ佛種を頌える者は縁起に従い、今当寺に有る石躰の地蔵菩薩は往昔一人の男有りて、久しく武家に仕えて其の性強暴也。中年に至り、その過ちを発心して、当住持慶空上人の所に来たりて而うして衆髪を剃除し「善西」と号す。道心堅固にして先非を悔い、此の地の地蔵菩薩を尊崇し、石灯寵を造立し並びに一具の彿飼を寄付し畢ぬ。其の後、諸人参詣して立願するに忽ちにして千慈を成す…』=原文のまま=と記され、さらにこのあと檀家や信者によって立派な地蔵堂が建てられたことも記録されている。
しかし、お地蔵さんをおまつりした経緯については記載されていなかった。
そこで同町内の古老から聴いた話を土台に想像をたくましうして、お地蔵さんの建立された経過をつづってみた。
いまから300年ほど前の江戸時代。同町内で飢饉や火災が相次ぎ、物情騒然とした世相が続いた。食べ物の不足による栄養失調で若して亡くなったり、火災で家を失い茫然自失の絶望状態に落ち込む人が増えていた。ある日のこと。一夜のうちに多くの町人が同じ夢をみた。その夢は「高貴なお坊さんが姿を現し“最上山、尼ヶ鼻の崖下に地蔵尊をおまつりして、みんなの悩みを解消して下さるよう心をこめて、お祈りしなさい。きっと願いを聞きとどけて下さるでしょう…”」というものだった。夢のことを知った地域の人たちは、何回も集会を開いて相談。みんなが力を合わせて泉龍寺境内に地蔵尊を建立。毎日かかさずお花を供えて、安心して楽しく暮らせる地域にして下さいとのお願いを続けた。しばらくすると、この願いが聞きとどけられ、食糧事情は好転、日を追うて暮らしがよくなった。その後は、みんなお地蔵さんに感謝しながらの生活したと、いうようなことだろうか…。
なお、泉龍寺は、はじめ寺町の尼ヶ鼻(最上山)下、現在、山崎町財菅公営駐車場のところにあったが、江戸時代中期、地蔵尊と共に現在地の伊沢町にお移りになったとのこと。
(2004年5月掲載)