山崎町鶴木に近在の人たちから″こんぴらさん″と呼ばれて崇め親しまれている金刀比羅神社がある。この神社には「剱(つるぎ)」「白鶴(はくつる)」「奇瑞(きずい)」にかかわる言い伝えがあり、同町城下小学校の百周年記念誌「飛翔」に、その内容が載っていると聞いた。
さっそく町立図書館へ行き同小学校の記念誌を借りて、ひもといた。同誌は平成4年10月に発行されたA4版、175ページの立派なもの。この中の「ふるさとの民話」の項に″鶴木の金刀比羅さんのおはなし″と題して伝説のことが記載されていた。そのあと、記念誌の作成当時、百周年記念事業推進委員会の記念誌部長をされていた同町鶴木、鶴崎和美さんを訪ね、言い伝えについての話を聞かせていただいたうえ、記念誌を参考に想像もまじえて同神社にまつわる伝説をつづってみた。
むかし、昔のこと。現在の同町鶴木に住んでいた、ある里人が畑づくりのため荒地を開墾。湧水を求めて大樹の近くに深い穴を掘っていたところ土中から「剱」を見つけ出した。両刃の直刀で並々ならぬ優美なものだった。この「剱」を見た里人たちは『こんな素晴らしい「剱」は尋常なものではない。きっと神様がお持ちになっていたものだろう』と、声をそろえて語り合い、大樹の根元にたてて、みんなで大切に見守った。そのころから同地区に居住する人たちが増え″剱村(つるぎむら)″というようになった。
その後のこと。「剱」をたてていた大樹の天辺(てっぺん)に白鶴が飛来。十日あまりも止(とど)まっていた。ある日、突然、蒼顔、白髪の老翁が現われ、里人たちに『われは「剱」の霊なり、ただいまより社を建立して神をまつるべし』と告げ、白鶴に姿を変えてたち去られた。里人たちは相談を重ねたうえ、力を合わせて、お社を建て鶴木大明神と名づけておまつり。″剱村″を″鶴木″に改めたという。 江戸時代の安永4年(1775年)夏。同町内の神戸屋又太郎さんの息子が庖瘡(ほうそう)を患(わずら)った。又太郎さんは薬を飲ませるなど出来る限りの手当を施したが難病だけに、なかなか治らず、日を迫うて哀れな姿になるばかりだった。この上は神様に、ご加護をお願いするしかないと在宅のまま毎日かかさず讃岐の金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)さまに『息子の病を治してやって下さい』と心を込めての祈願を続けた。すると病状が日ごとに快方に向い全快した。又太郎さんは息子が助かったのは大権現さまのお陰だと、讃岐へお礼まいりをすることにし、旅支度をしていたところ、ある夜の夢路に神様がお出になり『遠路はるばる海山越えて参詣するに及ばず、その地の鶴木大明神におまいりすべし』とのお告げがあった。
又太郎さんは、その翌日、夜の明けるのを待って鶴木大明神におまいり。心を込めてお礼を申し上げた。ひと息いれて帰ろうとした時、知り合いの山崎藩士の西川覚馬さんと、ぱったり出会った。しばらく二人で立ち話。又太郎さんが息子の疱瘡(ほうそう)が全快した経過や昨夜の夢路での神様のお告げの話しをしたところ覚馬さんも『疱瘡にかかり、あまり治らないので讃岐の金毘羅大権現さまに祈願したら全快した。お礼まいりをするため準備をしていた昨日の夜、いま貴方から聞いた夢路の話と全く同じ夢を見たので、このお社におまいりに来た』とのことだった。両人は思いもかけぬ「奇瑞」=めでたいことの不思議な兆(きざ)し=にびっくりすると同時に大感激。あちこちいたんでいるお社を建てなおすことを約束。里人や藩士らに協力をよびかけ、地域ぐるみで新しい神殿を建立。金毘羅大権現さまのご神体を納めて鎮座していただいた。そのころから同神社へおまいりした人たちの神徳奇瑞が続き、地元はもちろんのこと遠方から参詣する人たちも多かったと言い伝えられている。
(2003年7月掲載:山崎文化協会事務局)