山崎町役場で白谷敏明町長に、お目にかかる機会があった。短い時間だったが、いろいろと話し合っているうち、たまたま、揖保川のアユ漁のことが話題になった。この時、白谷町長から「アユの友釣りの発祥地は山崎町の揖保川なんですよ…。その筋の古文書に、このことが記載されていると聞いていますし、友釣りに関わる伝説もあるんです」との話を聞いた。
地元のアユ釣り愛好者にとっては、何よりも興味深い話題なので、後日、奈良県在住の全国屈指のアユ釣り名人といわれる鹿嶽繁さんが同町に来られたときに、お出会いし、アユの友釣り発祥地のことをお尋ねした。鹿嶽さんは 「友だちに古文書を見せてもらったが、それには“友釣りの発祥地は播州山崎を流れる揖保川”と書かれていました」と言明。友釣りについての「下駄屋(げたや)甚平」の伝説も語って下さった。
鹿嶽さんと山崎町山田、高井國義さんに聞いた話と同町中広瀬、厚東蘭渓さんから白谷町長あての便りの中に書かれていた「昔話」を総合、想像もまじえてアユの友釣り伝説をつづってみた。
昔のこと。山崎町五十波に「下駄屋甚平」という下駄職人が住んでいた。下駄づくりの腕前は天下一品。近在は勿論のこと、遠く京の都の舞妓さんや芸妓さんたちからも〝甚平下駄″といって愛用されていた。
甚平さんの楽しみは下駄づくりの合い間に、自宅近くの揖保川辺に出かけ、透き通ったきれいな流れの中を泳ぐ魚を見たり、釣りをしたりすることだった。ある夏の日、甚平さんが揖保川の西岸「縁の岩」という大きな岩の上に、どっかり腰をおろし、いつものように清流の中を見ていたところ二尾のアユがものすごい勢いで追っかけ合いをしながら互いに体をぶっつけたり、摩(す)り合わせるなど激しい縄張り争いを繰り広げていた。
このアユの行動に関心をよせた甚平さんは「ひょっとしてアユそっくりの形をした物を作って流れの中に入れたらアユが攻撃してくるんではないか…」と考えた。さっそく職場に帰り、下駄づくりに使っている木を材料に、日ごろの腕をふるって見事な疑似アユを作りあげた。あくる日、夜の明けるのを待って川辺にかけつけ、アユの居りそうな流れに疑似アユを付けた釣り糸を垂れた。しかし、木づくりとあって疑似アユが流れの中に沈まず失敗。思案のあげく、今度は小さな石を重しにして釣り糸にぶら下げ、疑似アユを流れに投げ入れた。すると疑似アユは直ぐに流れの中に沈み、間もなく縄張りを守ろうとするアユが猛烈な攻撃をかけてきた。その争いの姿に惚れこんだ甚平さんは何回も、この行為を繰り返して楽しんだ。
その後のこと。甚平さんは「疑似アユのお尻の方に針を付けたらアユが引っ掛かるかも…」と思いつき、試しに針付きの疑似アユを流れに入れてみた。ちょっぴり待つと元気なアユが針にかかり、何んとか釣りあげることも出来た。こうなると楽しさも倍増。下駄づくりの仕事は放ったらかしでアユ掛けに明け暮れする日が続いた。
何日も経ってから「疑似アユではなく釣りあげた元気な生きアユを“おとり”に釣りをすればどうだろう…」と、これを実行した。なんと疑似アユを使っていたときの数倍。面白くてたまらんほどアユが釣れた。これがアユの縄張り習性から考え出された今でいう「アユの友釣り」の始まりだったという。甚平さんが友釣りをしていたのは地元五十波の「縁の岩」付近だったのでここが『アユの友釣り発祥地』ではないかーといわれている。
このアユの友釣りのことが山崎町にやって来た商人によって全国各地に伝えられ、友釣り漁が盛んになったという。
(2001年3月掲載)