からりと晴れた日、山崎郷土研究会の大谷司郎会報部長に案内していただき、山崎町蔦沢地区の最奥地にある岩上神社を訪ねた。
緑いっぱいの樹林を通り抜け、参道を登って同神社の境内へ。正面に古めかしい威厳のある本殿。その直ぐ横に、ご神体ともいわれる6~10m四方もある、でっかい大岩(磐座:いわくら)がどっしり。大岩の近くには胸高周囲が6.7mのご神木のスギ巨木が天高くそびえていた。たいてい神社の社頭には魔除けのため獅子に似た獣の形をした狛犬(こまいぬ)一対が据え置かれているのだが、この神社のは珍しく狼(おおかみ)を形どったものだった。
同神社のご祭神は素盞鳴男大神(すさのおのおおかみ)、大己貴大神(おおなむちのおおかみ)、櫛稲田姫大神(くしいなだひめのおおかみ)。昔から耕牛の守護神、野猪・野猿の害を防ぐ神、疾病を守る神として播磨地方全域にわたる住民、とくに農家の人たちから深い信仰を集めてきた。
大谷部長から話を聞き、「山崎町史」や「蔦沢の伝説と民話集」などを参考に、想像も混えて同神社にかかわる、いくつかの語り継がれた話をつづってみた。
まず、最初の話。昔のこと。都多の里に玉のような美しい娘さんが住んでいた。ある時、出雲の素盞鳴尊が播磨の国を巡暦中、この娘さんを見て、ひと目ぼれ。相思相愛の仲になられた。尊はたびたび都多の里を訪ね、娘さんとの逢瀬を楽しまれた。しかし、数年後、尊の退(の)っぴきならぬ事情ができ、娘さんと別れなければならなくなった。尊は忙しい中、都多の里にかけつけ、娘さんとの別れを惜しまれた。その時、自分の着物の片柚(かたそで)をさいて手渡し「これを私だと思っていてくれ」と言い、急いで出雲へお帰りになった。娘さんは、その片袖を大切にしていたが、尊が亡くなられたのを聞き、きれいな森の中に祠(ほこら)を建て、片柚を尊のご神体として、おまつりしたのが、同神社のはじまりだという。
次の話。およそ660年前の暦応4年、お正月中ごろのこと。「ひとりの村人が深い森の中の大きな岩の上で、夜な夜な得もいわれぬ美しい“光”が輝いているのを見た」という話が村里に広がった。「本当のことだろうかー」「不思議なこともあるもんやー」など、よりより話し合われていたところ、同月下旬の「丑の日」、村人が同じ内容の霊夢(れいむ)を三回も続けて見たと、いうので、大騒ぎになった。夢は「薬師如来、不動明王、毘沙門天の三尊が大岩の上に立ち並び、薬師如来から“私たちは、すべての人びとを救い、世の中を平和で豊かなものにしたいから、早く社(やしろ)を建て岩上大明神として崇(あが)めなさい”とのお告げがあった」というもの。「これは、ただごとではない」と、長老たちが霊夢のことを国守に申し出た。国守は快く対応。奉行を都多の里にさしむけ詳しく話を聞いた上、社殿を建立。村人たちに「丑の日を縁日として、おまつりしなさい」と、申し渡した。これが同神社の創立だ、とも伝えられている。
それから350年ほど後の元禄時代、社殿の棟や梁がかたむくなどしたため、村人たちが代官所に再興を申し出ていた。ところが何処からともなく“重勝”という素晴らしい技量を持った大工があらわれ、同5年6月「丑の日」に斧(おの)初めを行い再建したともいう。
続いての話。400年ほど前の慶長年間、池田輝政が姫路城を築城したとき、同神社境内の大木が天守閣の真柱として供出されたと伝えられている。村人たちは同神社付近の森を古くから「神聖の森」として、一切、斧を入れることがなかったので、三かかえ、四かかえもある大木が林立していた。このうち一番真っすぐで大きな木が真柱に選ばれたとかー。この大木を伐り出した株から萌芽(ほうが)して大きく育ったのが、いま本殿近くにそびえるご神木だという。
(2000年11月掲載)