(22)『お花屋敷と忠佐護神社』

『お花屋敷』と呼ばれた田んぼ付近

 うだるような暑い日、千種町教育委員会を訪ねた。上山明教育長にお会いして同町岩野辺地区で語り継がれている『お花屋敷と忠佐護神社(ちゅうさごじんじゃ)』の伝説について話し合い、ご無理を申し上げて伝説の地へ案内していただいた。途中から地元の柳谷恵治さんにも加わってもらい、山すそのあち、こちを歩いて、お花屋敷と忠佐護神社の跡を捜したが屋敷跡も、神社跡も「それらしい」ところは見つけたが「間違いなく、これが跡地である」という場所は確認することが出来なかった。地元の人たちから聞いた話と大正9年発刊された『千種村是』を参考に想像もまじえて、この伝説をつづってみた。

 昔、千草の荘(そう)、岩野辺の里(千種町岩野辺)に“お花”という色白で美しい娘が住んでいた。近在の人たちは奇麗な“お花”のことを“小町娘”と呼んでいた。 “お花” は母親との二人暮らし。親を助け、せっせと家事や農耕に励みながら、つづまやかな生活を常んでいた。
 ある日の夜、母親が “お花” の許へ男が来ているのに気付いた。心配した母親は、そっと物陰にかくれて “お花” の部屋を覗いたところ肩衣(かたきぬ)袴(はかま)(当時の通常礼装)に身を整えた凛凛しい武士が “お花” と肩寄せあって仲よく話し合っていた。
 母親は「ありふれた農家の娘のところへ身形(みなり)の立派な武士が忍んで来るのは、どうもおかしい」と思ったが、近所の人たちに武士のことを尋ねるのをはばかって一人で悩んでいた。だが「どうしても武士がどこに住み、どんな人かを確かめたい」との思いがつのるばかり。思案のあげく何年も前から紡(つむ)ぎためた長い、長い麻糸を針に通し、これを武士の袴に刺し、武士の帰るのを待って、その糸をたどって行けば住居を突き止めることが出来るのではないかーと考えた。
 さっそく二人が逢瀬(あうせ)を楽しんでいる夜更に “お花” の部屋に忍び込み、両人のすきを狙って武士の袴に麻糸を通した針を刺し込んだ。あくる早朝、武士が “お花” の部屋から足ばやに帰るのを見とどけ、武士の袴からズルズルと長く伸びた麻糸をたどって、あとを追った。およそ2町(200m余)行ったところで、武士は小河内川の丈余(3m以上)もある深い渕の中へ姿を消した。
 びっくりした母親は急いで村里に帰り、近所の人たちに、このことを話した。だれもが「それは、おかしいぞ」といい、うち揃(そろ)って小河内川の渕へかけつけた。なんと、渕には大蛇(だいじゃ)の死体が浮かんでいた。
  “お花” のところへ忍んで来ていたのは武士ではなく、大蛇の化けた怪物で、鉄(針)の中毒で死んでいたという。
 数ヵ月後のこと。 “お花” が妊娠しているのを母親に告げた。母親は大蛇の胤(たね)を宿したのではないかと驚き、あわてて鉄漿(おはくろ)汁を飲ませた。数日たってから “お花” が八匹の蛇の子を死産した。まもなく “お花” も蛇の子を生んだ恐怖におののき、帰らぬ旅路に着いた。村里の人たちは、この蛇の子を『忠佐護神社』としてまつり、その霊を慰めた。また、かわいそうな “お花” の住んでいたところを『お花屋敷』と呼ぶようになったという。

 参考にした『千種村是』には「この伝説が語り始められたのは、いまから約700年前の正安年間。忠佐護神社には昔、拝殿もあり毎年、例祭では青年による獅子舞が奉納されていたこと。小河内川には“蛇の渕”があったが、明治33年の洪水で埋もれたこと。川の東方に『お花屋敷』と呼ばれる田んぼがあること。」なども記載されている。
 この伝説は、今どき、とても信じられない内容だが「昔から千種町には“千種美人”と呼ばれる奇麗な娘さんが多く、いい寄る男があとをたたなかった。そこで娘さんたちに身形(みなり)だけを見て男と仲よしになるのは止めなさい。との警告のため語り継がれた話ではないか…。」という人もあった。
            (2000年9月掲載)