山崎町寺町、大雲寺の江戸時代に建立された立派な山門をくぐり抜けると、 直ぐ左側に「大悲閣」と名づけられたお堂が建っている。
このお堂の中には大きなハスの花弁を型どった台座の上に、
どっかりお座わりになった『さずけ地蔵』がおまつりしてある。座高およそ1.3m。色あでやかな大きな前垂れをかけ、表情は慈愛に満ちあふれている。
お地蔵さんの横には分身といわれる座高15cmと20cmくらいの小さな「脇地蔵」二体が安置され、うしろ側には“願いごと”を書いた絵馬が数え切れぬほど、ずらりぶら下げられている。
同寺の住職、加藤昭彦さんの話によると、いまから280年ほど前、江戸時代の享保年間のころ、同町内で大火災や飢饉が相次ぎ、物情騒然とした世相が続いた。そんな乱れた世を、ことのほか心配された当時の同寺住職、實誉上人が泰平を祈願。享保8年(1723年)本堂近くに『さずけ地蔵』を建立されたとのこと。
お地蔵さんは、“さずけごと”を持ち、夜間、信仰の深い人たちの家を訪ねて回り、明け方には地蔵堂に帰られたという伝説もあり、別名『往来地蔵』ともいわれている。
想像だが『さずけ地蔵』は天候不順で農作物がとれず食料が欠乏した飢饉の時には家々をめぐって“お粥(かゆ)”など食物をさずけたり、火災で負傷したり、病気で困っている人があれば全快を、子供に恵まれぬひとのためには丈夫な子の出産を願って全身全霊、念仏を唱え、学びたい子には知恵さずけをするなど、多くの善行を積み重ねられたというので『さずけ地蔵』と呼ばれるようになったのではなかろうか-。
いまも伝えられているのは、ここの『さずけ地蔵』にお参りして願を掛け、お地蔵さんの直ぐそばに置かれている分身の小さな“脇の地蔵さん”をお借りして家に持ち帰り、床の間に安置。一週間くらい、かかさずお祈りを続けてからお地蔵さんを元のお堂に返すと、願いごとのおさずけがある。願いが叶えられれば新しく前垂れを作ってお礼参りをすればよいという。
昭和59年(1984年)本堂近くの『さずけ地蔵』が現在地に移されたが、そのとき台座の裏側に享保8年4月15日の建立が印されていたほか、くぼみから出てきた過去帳には「清龍山大雲浄寺、九世實誉、天下和順、日月清明」などと、記入されていた。また、山崎町史によると享保4年(1719年)には町内で172軒が被災する大火事。同7年(1722年)には飢饉。翌8年には同町富士野町で火災が発生したことが記載され『さずけ地蔵』建立のころの物情騒然の世相がうかがえる。
寺院では毎年1月24日の「初地蔵」には子供たちを接待。お菓子や甘酒をふるまい、交通安全と知恵授けのお守りを配る。8月24日の「地蔵盆」には、お菓子やカキ氷を用意。文具などが当たる福引きなどしているが、このとき『さずけ地蔵』を、
おまつりしてあるお堂前は親子連れのお参りでにぎわう。
大雲寺は元和5年(1619年)に専誉上人により開基され、延宝7年(1679年)から山崎藩主、本多肥後守の菩提寺となっている。
(2000年3月掲載)