(15)千種町『千草念仏』と『椿の逆達杭』

 野も山も〝みどり″いっぱい。自然の美しい千種町へ。同町教育委員会を訪ね、上山明教育長から話を聴き、大正9年発刊の「千種村是」を参考に「千草念仏」と「椿(つばき)の逆杭」伝説についてつづってみた。
 「千草念仏」は毎年4月の第3日曜に同町千草、安国山教信院西蓮寺で催され、貞観時代、仏教界の明星と仰がれた教信上人を供養する大法会はじめ同寺住職の説法や椎児行列など多彩な行事が繰り広げられ、近在からのお参りの人たちでにぎわう。かつては大法会が旧暦3月9日から15目まで一週間にわたって厳修され、同町内はもちろん、隣の波賀町はじめ鳥取、岡山方面から多数の善男善女がつめかけ、参道付近には屋台店や〝のぞき″など見世物がずらり並んだという。

 いまから、およそ1130年前の貞観年代、教信上人が諸国巡礼中、千草(現、千種町)に立ち寄り、地域の人たちを集めて教化説法をしていた。そのとき、たまたま通りかかった旅人に西国(作州)への道案内を乞(こ)われた。教信上人は旅人の願いを聞き入れ、けわしい山道を登るなど、やっとのことで道案内をすませた。しかし、その帰り道、疲れがでたためか病気にかかり貞観8年(866年)千草で亡くなられた。86歳だった。
 教信上人の庵(いおり)のあった播州加古(現、加古川市)の人たちが教信上人が千草で死去されたことを知り、遺体を引き取りにやって来た。だが、千草の人たちは、これを拒否。ついに争論となり役人に訴えた。翌、貞観9年、役人から『頭は加古に送り、骸(むくろ)を千草に葬るべし』との達示があった。村人たちは泣く泣く遺体を切断して頭は加古の人たちが引き取り、胴体は地元に墓所を建てて葬った。その後、村人たちは教信上人を供養するため仏堂(西蓮寺)を建築。「千草念仏」と名づけて毎年春、かかさず大法会を営んだ。

 「千草念仏」にまつわる伝説として「椿の逆杭」の話が言い伝えられている。昔のこと。毎年3月「千草念仏」が始まる日、若くてきれいな娘さんが一人ずつ行方知れずになっていた。近在の人たちは、この〝人失せ″を恐がり「千草念仏」へのお参りが年を追うて少なくなっていった。心配した仏堂の住職は〝人失せ退魔″の大祈祷を行った。
 その夜のこと。とある念仏宿に真っ青な顔をして疲れきった様子の美しい娘さんが訪れ『千草念仏のお参りに行く途中ですが、お腹が痛くて困っています。ひと晩、とめていただけませんか…』と助けを求めた。宿の妻女は、さっそく八畳の間に寝床を敷いて案内した。娘さんは『私が休んでいる間、この部屋の戸は絶対あけないで下さい』といい、ピシャッと戸を締めた。
 妻女は不審に思い、夜中にこっそり戸の隙間(すきま)から部屋の中をのぞいて見たところ、八畳の間いっぱいに大蛇(だいじゃ)がドグロを巻いていた。びっくりした妻女は、その場で倒れ気を失なってしまった。これに気付いた大蛇は、再び娘に姿を変え、あわただしく宿を出ていった。おどろきと恐ろしさのあまり妻女は発狂し『大蛇がくる。大蛇がくる。』と叫び続けた。困った主人は仏堂の住職に、ことの次第を話し妻女の快気を願うご祈祷を頼んだ。住職は椿の梢にお祈りをし『これを持ち帰って庭に逆さに立てなさい。そうすれば大蛇が姿を見せることはない』と伝えた。主人は住職の言われた通り、椿の梢を逆さにして庭に立てたところ、妻女の狂気がたちまちなおり、大蛇が現われることもなくなった。また、「千草念仏」大法会初日の〝人失せ″もばったりやんだ。椿の逆杭は、やがて芽をふき、大きく生長して美しい花を咲かせたが、数十年前、伐り倒されたという。
          (1999年7月掲載)