山崎町冨土野町と今宿を結ぶ坂道沿いに、地域の人たちが“お地蔵さん”をおまつりしている。
この “ お地蔵さん ” は〔衣坂(ころもざか)の叶え地蔵〕と呼ばれ「願いごと一つは必ず叶えて下さる」というので近在から、おまいりする人たちが多い。
“ お地蔵さん ” の世話人代表、冨土野町の高野保雄さんは、この “ 叶え地蔵 ” にまつわる伝説を次のように語ってくださった。
いまから約90年前の明治時代の終わりごろ、同町西新町の女性の夢枕に慈悲深そうなお坊さんが現われ「才蓮寺畑に埋もれている吾を地上へ!!」「そして北向きにまつりたまえ」とのお告げがあった。女性は夜の明けるのを待ち、三人の屈強な男性を雇って才蓮寺畑に出かけ、終日、畑を掘り起こして捜したが何も見つけることが出来なかった。その夜、再び夢枕に立ち、前夜と同じお告げがあったので翌日も才蓮寺畑の掘り起こし作業を続けた。しかし、この日も何も出てこなかった。同夜、再度、夢枕にお坊さんが姿を見せ「ご苦労さん。もう少し横に広く掘り起こしなさい」とのお告げ。あくる日、畑をさらに広く掘り起こしたところ夕方になって深さ約1メートルのやわらかい土の中から、やさしいお姿をした“お地蔵さん”が見つかった。
女性はさっそく “ お地蔵さん ” を畑にほど近い竹ヤブ沿いの道ばたに手厚くおまつりし、線香をたて供物をそなえて供養した。
この “ お地蔵さん ” は霊験が高く、一粒の米や豆のお供えと一文のお賓銭(さいせん)で、お願いごと一つを叶えてくださるというので、おまいりする人たちがあとをたたず、線香の煙やローソクの灯が絶えることがなかった。
ところが、ある日、いたずら男が「おれの往来する道が線香くさくてたまらん」と “ お地蔵さん ” を担ぎあげ、近くを流れる川の水門付近に投げ込んだ。このとき “ お地蔵さん ” は真っ二つに割れてしまった。おどろいた地域の人たちが “ お地蔵さん ” を川から引き上げ、一体の “ お地蔵さん ” に補修して元の場所に安置した。その後、いたずら男は崇(たたり)のためか不幸続き。改俊して新しい道ばたに境内を寄進。地元の十二人が世話人となり昭和4年(1929年)現在地に地蔵堂を建立。夢枕に立ったお告げ通り北向きに “ お地蔵さん ” をおまつりしたという。
“お地蔵さん”には、いまから4百余年前、天正丑年八月(1577年)と刻まれており、この年は織田信長が安土城に入った翌年。羽柴秀吉が中国攻めに出発した年に当たる。
昭和56年(1981年)に新しく地蔵堂を改築。玉垣を立て、さらに同59年(1984年)には地蔵堂の南側広場に“水子地蔵”をおまつりし、スベリ台、ブランコを取り付けた子供の遊び場も作った。
毎年、4月24日、境内で護摩供養が催され息災を祈願。8月24日の地蔵盆にほ盛大な盆おどり大会が開かれ、近在の人たちでにぎわう。
(1996年3月掲載)