山崎町上寺、法光山、妙勝寺の表山門をくぐり、本堂に向かって左側の庭を見ると「夜泣霊碑」と刻み込まれた石碑がたっている。高さ、およそ1.8m、幅30cmほどの細長いもの。横から眺めると、わずかな反りがあり、もと、石の橋として使われていたものだと推測できる。この石が江戸時代末期、山崎城下の人びとをさわがせた「夜泣き石」だといわれる。
同寺、住職の大岩祥峰さんは、この「夜泣き石」について『史実にもとづくものではありません。あくまで伝説です。この伝説にも、いろいろの説があるんですが…』と前置きして次のような話をしてくださった。
江戸時代も終わりに近いころ。赤穂藩士の娘が、ある山崎藩士の元へ行儀見習いに来ていた。絶世の美人で、たちまち町の評判になり「赤穂小町」といわれるようになった。この美しい娘に思いをよせる若者たちは多く、なかに、しつこく言いよる山崎藩の若者もいた。しかし、娘は、すでに赤穂に恋人がいたので、だれにも、よい返事はしなかった。
ある、おぼろ月の夜。この娘が山崎城下を流れる小川に架かっている石橋の上で殺された。評判の「赤穂小町殺人事件」とあって、城下は大さわぎ。『だれが』『なぜ殺したんだろう』など、うわさにうわさをよんだ。なかに、しつこく言いよっていた山崎藩士の若者の仕業だろうという人もあったが、はっきりとしたことは、わからずじまい。
娘の死顔は、あまりにも可憐で美しかったので、世間の人びとは、その死を、ことのほかあわれんだ。殺人事件のあった日から娘の怨念が石橋に、のりうつったものか、夜になると石が「赤穂へいのう。赤穂へいのう。」と悲しい声で泣きだした。町の人たちは、気味悪がって、だれも、この石橋を通らなくなってしまった。やがて、だれ言うとなく、この石橋を「夜泣石」というようになった。
城主は「縁起のよくない石橋」というので家来に命じて新しい石橋に架け替えさせた。そうして、元の石橋は地元へ下げ渡した。町の人たちは殿さまから下げ渡された石橋だったが 「不浄の石橋を使って、たたりでもあっては大変だ」と、その取り扱いに困りはてた。恩案のあげく石橋を近くのお寺に持ち込み、墓場の竹やぶの中に置いた。しかし「赤穂へいのう。赤穂へいのう」との夜泣きは止むことなく続いた。
当時、妙勝寺は、いまの鹿沢、天理教会東側にあったが、建物のいたみがひどく、この寺をつぶして上寺の方へ新しく建てなおすことになった。「寺が建つのなら石橋を石材として使ってもらったら娘のたたりもなくなるだろう」と、いうことになり、新しい寺の敷地に「夜泣き石」を運んだ。そこで、時の山主、要妙院日解上人が、この「夜泣き石」を寺内の庭に安置し「夜泣霊稗」として、ねんごろに供養して菩提をとむらった。それ以来、法華経の功徳をうけ「赤穂へいのう。赤穂へいのう」の夜泣きが止んだという。
大岩さんは、いまも毎年、春秋の彼岸とお盆には、かかさず「夜泣霊碑」の前に、お花をたて、ねんごろに供養している。
(1995年12月掲載)